生まれた日から

 

【人間って状態の連続だと思うんです。人間性やその自認って未来永劫固定された自明の事実ではない気がするんですよね。別にたゆたっていて当たり前だと思うし。今日私はこういうふうに生きているけど、明日になってもまた同じとは限らない。そういう気分はすごく理解できるんですよね。もちろんそれと同時に変えようがないものもあると思うんですけど、やっぱり基本的には状態の連続で、アポトーシスを繰り返して細胞が入れ替わっているのと同じように、ずっと死んでは生まれてを繰り返している感じがあるんです。

だから、自分の歴史を振り返ってみたときに、なんだか今の自分とは全然違うなと思ったりもするんですよね。昔の自分と連続しているものもあるけれども、自分が今どういうふうに生きていて、何を考えていて、身の周りがどういう環境なのかという、複合的な要因によってどんどん自分は作り変わっていく。そういった過程の中で音楽を作ることは、なんか“祈り”だと思うんです。自分はそうやって“祈り”として定期的に音楽を作り続け、祈り続けてきた人間なんです。話が変わるかもしれないですけど、ミュージシャンのことを神様みたいに言う風潮があるじゃないですか。あれがすごい嫌で。逆なんですよ。

音楽によって人を癒やしていくというのは、音楽を作っていない人からすると、さも魔法を使える神様みたいに見えるかもしれない。けれど、本質は逆であって。神が無から音楽を作り出すんじゃなく、神様みたいな楽曲がまず最初にあって、私たちはそれに祈り続けているただの使徒なんだという。話が逸れましたけど、そうやって祈り続けて、曲ができて、演奏して、そのたびにどこか過去の自分から解放されていく感じがある。その瞬間に開けるものがあって、その結果また新たな自分が始まっていく感じがする。なので自分は一貫性というものをそこまで信頼していないんです。

主語も曲によって変わって、「私」と歌うときもあれば「僕」のときも「俺」のときもある。自分がそういう人間なもんで、相手もそういうところがあるだろうなと思うんですよね。今こうやって目の前で話をしている人間はこういう人であるという、そのことを確認し合いながら関係性は続いていきますけど、明日になったらコロッと全然違うやつになってるかもしれない。そうなったときに、なるべくそいつをコントロールしたくないんですよ。ちゃんと他者性を認識したうえで相手と付き合うという。それは自分にとってすごく重要だと思う。「あなたってこういう人だよね」と限定したくないんですよね。別に目の前にいるあなたがあなたじゃなくなってもかまわないけど、あなたが今いるから私の人生楽しいですよっていう。その繰り返しだと思うんです。そもそも人はコントロールできるもんじゃないし、コントロール不可能な部分をいかに認めたうえで生きていけるかというのは、ものすごく重要なんじゃないかなって。少なくとも自分はそういうふうに人に接していたいし、自分の祈りの発露としての音楽はそういう形であってほしい気はしますね。】

《1年中ずっと続くかはわからないですけど、今は準備を楽しんでいる感じです。この世の中ってほとんどが準備だと思うんですよね。結果が生まれるにしても、その結果に紐付いた準備が水面下にある。その準備の連続によって世の中が満たされている。ものすごく当たり前のことなんですけど、それをいかに楽しめるかというのは今の自分に重要なことなんじゃないかなと。準備を楽しむ人生がここから獲得できたらいいなと思っています。》

https://natalie.mu/music/pp/yonezukenshi26/page/2

 

準備を楽しむ人生を獲得という考え自体はわかるけど、それを実感して今の自分に重要だと言葉に残すところが唸るのよ、俯瞰オブ俯瞰。え、天界??

朝起きて、さて夕飯何にしようかなーって思うようなわたしには到底獲得できないのよ米津玄師、さあさあ、GW最終日はピーマンの肉詰め作るぞ🫑今日の夕方に東京へ戻る長男にも持たせるつもりだから、食べたかったら早めに言ってねー!おはよー!